【40代の悩み】「推し」なしコンプレックス

暮らし

私には「推し」がいません。

「推しはいる?」と聞かれることが「休日何してる?」と同じくらい、私にとってモヤモヤする質問になりつつあります。「推し」がいるのが当たり前になっているこの時代に、「推し」がいないと言うのは自分だけみんなの輪に入れないような、置いてきぼりをくらってるような…

私は今、「推し」がいないことが少しばかりコンプレックスなんです。

「推し」と「好き」の違い?

*「推し」とは?
お気に入りの人物に対して、「ほかの人に薦めたい」「もっといろんな人に知ってもらいたい」といった気持ちになること。単に「好き」というよりも、もっと強い支持や憧れの気持ち。

私の「好き」が到底「推し」と呼ぶことはできない理由は、【湧き上がる気持ち】があるワケでもなく、【尽くしたい気持ち】があるワケでもなく、なにより【夢中】になっていないからです。夢中になるって実はすっごく難しい。「好き」を超えて【夢中】になれるってある種の才能ですよね。                                                                                                                                                                                                                    

「推し」という肩書き

「推し」というものは、自分がどういう人間なのかを説明できる最強の肩書き。仕事や役職だけでは説明できない、私の「好き」を全面に押し出すことができるものが、これ以外に存在しているでしょうか?

初対面であっても、「推し」を聞くことで生まれる共感からコミュニケーションが取りやすくなり、スッと懐に入っていくことができる。正直、これは今の時代に必要なスキルのような気すらしてきます。

「推し」がいる意味

「推し」がいることで今まで接点がなかった人たちと繋がれたり、行ったことない場所に行ったり、聞いたことのない音楽に触れたり…それらが人生をより楽しくしていることは明確で、素直にいいなと思うからこそ「推し」が欲しくなるのです。

平凡に過ぎていく毎日に、いろどりを与えてくれる「推し」。【夢中】にさせてくれて、元気をくれる「推し」

自分の好きなものを主張して、共感を得ることで承認欲が満たされるこの存在は、幸せを感じることができる以外にも、私もコミュニティの中にいるという安心感を得ることができる。「推し」を持つことが当たり前になった今は、「推し」がいないと寂しい気持ちになるのもしょうがないですよね。

「推し」なしはつまらない?

以上を踏まえて、私の「推し」なしコンプレックスをもう一度考えてみます。

【夢中】になれるものがあって羨ましいと思う純粋な気持ちと、コミュニケーションのひとつとしての話題性、そして私もみんなと一緒だという安心感を得るために「推し」が欲しいと思う気持ち。

「推し」がいたら絶対楽しい。でもみんなと共感したいがために、無理して作るものでもない気もする。

きっと、これからも「推し」が欲しいと願うだろうし、いつか本当に「推し」ができれば嬉しい。もしずっと「推し」ができなくたって、そんなこともあるよね、と気楽に構えてあげられる余裕が欲しいなと思う今日この頃です。

コメント