私には「推し」がいません。
「推しはいる?」と聞かれることが「休日何してる?」と同じくらい、私にとってモヤモヤする質問になりつつあります。「推し」がいるのが当たり前になっているこの時代に、「推し」がいないと言うのは自分だけみんなの輪に入れないような、置いてきぼりをくらってるような…
私は今、「推し」がいないことが少しばかりコンプレックスなんです。
「推し」と「好き」の違い?
*「推し」とは?
お気に入りの人物に対して、「ほかの人に薦めたい」「もっといろんな人に知ってもらいたい」といった気持ちになること。単に「好き」というよりも、もっと強い支持や憧れの気持ち。
私の「好き」が到底「推し」と呼ぶことはできない理由は、【湧き上がる気持ち】があるワケでもなく、【尽くしたい気持ち】があるワケでもなく、なにより【夢中】になっていないからです。夢中になるって実はすっごく難しい。「好き」を超えて【夢中】になれるってある種の才能ですよね。
「推し」という肩書き
「推し」というものは、自分がどういう人間なのかを説明できる最強の肩書き。仕事や役職だけでは説明できない、私の「好き」を全面に押し出すことができるものが、これ以外に存在しているでしょうか?
初対面であっても、「推し」を聞くことで生まれる共感からコミュニケーションが取りやすくなり、スッと懐に入っていくことができる。正直、これは今の時代に必要なスキルのような気すらしてきます。
「推し」がいる意味
「推し」がいることで今まで接点がなかった人たちと繋がれたり、行ったことない場所に行ったり、聞いたことのない音楽に触れたり…それらが人生をより楽しくしていることは明確で、素直にいいなと思うからこそ「推し」が欲しくなるのです。
平凡に過ぎていく毎日に、いろどりを与えてくれる「推し」。【夢中】にさせてくれて、元気をくれる「推し」。
自分の好きなものを主張して、共感を得ることで承認欲が満たされるこの存在は、幸せを感じることができる以外にも、私もコミュニティの中にいるという安心感を得ることができる。「推し」を持つことが当たり前になった今は、「推し」がいないと寂しい気持ちになるのもしょうがないですよね。
「推し」なしはつまらない?
以上を踏まえて、私の「推し」なしコンプレックスをもう一度考えてみます。
【夢中】になれるものがあって羨ましいと思う純粋な気持ちと、コミュニケーションのひとつとしての話題性、そして私もみんなと一緒だという安心感を得るために「推し」が欲しいと思う気持ち。
「推し」がいたら絶対楽しい。でもみんなと共感したいがために、無理して作るものでもない気もする。
きっと、これからも「推し」が欲しいと願うだろうし、いつか本当に「推し」ができれば嬉しい。もしずっと「推し」ができなくたって、そんなこともあるよね、と気楽に構えてあげられる余裕が欲しいなと思う今日この頃です。
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